よけのまいのにんげん

いつかの為の遺書です。

2020/4/3

わたしはよちよちほちゃほちゃの頃から無駄に感受性が強く、小学生のとき「成長して年齢を重ねていけば周りの人たちのように感じにくくなるのだろう」と期待もしていた。だが結局無駄に感受性が強いまま年齢を重ねてきてしまっている。さらに言えば推測したり知識がついたりといったことで了見は小学生のときよりも広がってしまい考えが進みやすくなり感じることが無駄に鋭くなってしまった気もする。小学生で死んでればよかったと思わなくはないが生き長らえてしまっているので無駄に鋭く強い感受性で今を耐えている他ない。まあまあつらい。世の中のなんやかんやがしんどくてここしばらくは毎夜泣いてしまうし、自死のことは頭を離れない。その選択をせずやり過ごすことに努めていることは誉められたことなのかもわからないときも多々、それはもうめちゃめちゃいっぱいある中でわたしはわたしにできるように時を過ごしている。むかしわたしと似たような苦しみをしていた先人たちや見ず知らずの人の私記に心慰められたことがあるので、こうした記述をすることはかつてのわたしのような人がいた場合その人の一時の慰みになるかもしれないと思う、できることそれくらいじゃないかと思う、まあ役に立つということが善かどうかはまたちがうだろうけども。わたしは世の中がしんどくて毎夜毎夜泣いてしまうが、わたしが人間の形をしている以上人間の世の中にどうしても居ざるを得ない。きっと羊の社会もカエルの社会もシビアであろうから人間以外をできる気も全くしない。形もたぬものになるしかない。では死ぬしかないな、となる。この理由から言っても。だがその選択は今もまたしてない。人間の世の中に居ている。なのでまたその世の中がしんどくて泣いている。感受性のせいだとしたら感受性いらねえ。泣くのはつかれる。