セージが枯れてなかった
人に嘘偽りのない態度を示す―というより、あえてそういう態度を示したことを黙って見逃すような者は一人もいない。誰かに本当のことを言うのは、不作法の罪を犯すこと、相手より自分がまさっていることを認めることだ。「どんな権利で、本当のことを面と向かって言うのかね?」(『カイエ』)
— シオラン (@Cioran_Jp) 2015, 7月 13
晒すのは恥しかない ありのままあらん限り 血肉とて いつかは 皮膚を出て不明になるのだや 生きても生きてもワルツ 死んでも死んでもワルツ 出会いも出会いもワルツ 別れも別れもワルツ/ワルツ
— 友川カズキbot (@tomokawa_bot) 2015, 7月 16
深みで語られるものは、高みで歌われる。
— TristanTzara (@TristanTzarabot) 2015, 7月 1
さまざまの病気が優位に立とうと争っている戦場、私はこの戦場にすぎない。(『カイエ』)
— シオラン (@Cioran_Jp) 2015, 7月 4
どんな才能もないというのはなんという特典だろう!才能を持った人間は憐れむべきだ。画家は今なお、色彩から何かを引きだすことができるのだろうか?詩人は、眠りに落ちた言葉を呼び覚ますことができるのか?あらゆる音の組み合わせが考えられてしまった時代に、音楽家にはどんな未来があるのだろう?
— シオラン (@Cioran_Jp) 2015, 7月 5
善意のつもり、賢いつもり、自分は永遠に健常者の側で障害者を助けてあげる側から決して出なくてよいと思っているような、差別的な「やさしい」物言いには、心底反吐が出る。へどろをすくってその顔に投げつけてやりたい気分だ。
— ayaiwat (@ilu2aya) 2015, 7月 6
自分が正しいかどうかをどうしたら知ることができるか。その目安はしごく簡単なものだ。すなわち、他人どもが君を避けて寄りつかないならば、彼らよりも君の方がずっと本質的なものの近くにいることはまず疑いない。(『四つ裂きの刑』)
— シオラン (@Cioran_Jp) 2015, 7月 6
ラディゲは、明るみのもとで仕事をする。ぼくの神童は、世界中でもっともありふれた様子をしている。まるで、こう言っているようだ「このように、ぼくの年齢のものはみんなあるべきだ。ぼくが普通なので、ほかの連中が例外なのさ」と。『レーモン・ラディゲ』
— Jean Cocteau (@Cocteau_ESSAI) 2015, 7月 8
わかりました死にますって言ってそのまま本当に死ねたらどんなにいいだろう。
本当は殺したいけどやっぱり死にたい。そんな感じ。恥さらしを今日もインターネットにのせて生きる私が心底くだらないのでわかりました死にます。私は浪費しかできない無駄な存在なのでわかりました死にます。
不思議な星に不思議なものが存在してそれが不思議と増えたりもして不思議なことに連続していってだから不思議に終わるのだろう。私が自殺に成功したところでせいぜい日本の自殺者としてカウントされるだけだろう。三万分の一くらい。ひょっとしたら自殺とカウントされなかったりするかもしれない。だったら十五万分の一くらい?だから死んでも一緒だ。死んでもなんにもならないのなら私は早く死ぬべきだ。生きているより死ぬべきだ。現状が続くことより死んだほうが楽だ。
私は私による要因で死にたいだけ。誰かとくらべた美醜などは少なくともこのとき問題でない。社会が害なのか私が害なのかという不毛な議論は疲れるだけなので。私は私による私の問題により死にたいので自殺を選びたい。生きていくのに疲れただけかも。シーシュポスごっこに疲れただけかも(かっこつけた言い方)。
生きても死んでも役に立つことはない。生きても死んでも同じことなら辛苦の少ないほうへいきたいだろう?そういうこと。
誰のせい?とか言ってはいけない……?
高校中退まで私に関わった教師・講師・あるいは保育士?みなさん多少は責任感じてくださいとか、言ってはいけない……?(復讐心の前身のようなものが沸き起こる夜それが今夜)
私を殺すなら今だぜ。こんななんにもならない私の頭部にバキュンと一発。誰か私のくだらない思考を止めてください!